病気前の母

病気前の母

昭和24年生まれ。兄が1人。

 

親父との出会いは、母の隣の家にたまたま親父の友達がいてその人からの紹介でお見合い結婚したそうだ。
とにかく私の両親は仲が良く。親父がインテリア関係の営業をしていた事も手伝って、時間があればドライブがてら付いて行ってたそうだ。

 

私が生まれてからはパート勤めをして家計を支えた。アルツハイマーが発病したのをきっかけに54歳でパートを辞める事になる。それも友達の親切心が母にとっては重大な裏切りとなった。
結果、私達家族にとっても重大な事件となった正に『だまし討ち』である。

 

平成2年頃、自身の母親(私にとっての祖母)が庭で倒れるも発見が遅く植物人間になってしまった。
原因は脳卒中。4年半病院のベッドで意識が回復しないままこの世を去った。

 

母親の病院に通う為に自動車免許を取得し、午前中のパートが終わったら昼から病院にほぼ毎日見舞いに行っていた。

 

 

とにかく多趣味な人だった。
私の記憶にあるだけでも、パッチワーク・刺繍・俳句・ポエム・紙粘土・ろう花・籐工芸・トールペイント等々、様々な『母の作品』達が家のあらゆる場所に飾ってあった。
また旅行も大好きで、よく親父や友達同士で出かけていたのを覚えている。

 

どれも器用にこなし、俳句が趣味だった頃は町の標語に選ばれ、今でもその標語は近くの公園に飾られている。

 

そんな手先が器用な母を病気の魔の手がゆっくりと確実に襲って来ているとは私達家族は誰一人として気付かなかった・・・。

発症前の母の生活リズム

アルツハイマーのきっかけになったのかは定かではないが、母の生活リズムが人とは少し違っていた事を書き記しておく。

 

心当たりがあるとすれば昭和62年頃に母の実母(私の祖母)が脳卒中で倒れた頃だろうか・・・

 

私も当時は小学生で、家の事なんて何も手伝わず友達と遊ぶ事しか頭にないクソガキだった。
そんな中、祖母が倒れた。

 

倒れた当初は近くの病院に運ばれたが、発見されるまでに4時間以上かかってしまった事で脳内に血が溜まっていると診断された。
そのまま大学病院へ搬送され、血を抜くために頭を切開する手術となった。
術後は無菌室でずっと寝ている状態が続いた。

 

数週間経過しても意識は回復せず、最初に運ばれた同じ郡内の病院に移る事となった。
最初の病院からは近くはなったが、自宅からは交通の便が悪くバスで乗り換えも含め1時間以上はかかった。

 

そこで母は一大決心をし、自動車の免許を取りに行ったのである。
自転車しか乗れない母の37歳の挑戦だ!

 

それからほぼ毎日、午前中のパートが終わると昼からは自動車学校へ行き、学校が終わるとバスで病院に行って必死の看護を続けた。

 

特に体のツボの本を購入し、看護をしている間は根気強く祖母の全身をマッサージし続けた。
『絶対に意識を回復させる!』という母の強い信念を子供ながらに強く感じていた。

 

夜になると親父が会社帰りに病院まで迎えに行き、家に帰って来ていた。

 

数時間祖母にマッサージを続けた母は当然疲れ果ていた。
それで、家の晩飯はほぼ出前になった。

 

夕食を終えた母は、すぐにソファーで寝るようになった。しかも起きるのは12時?2時ぐらいだった。

 

それから風呂に入り、洗濯して食器を洗い、洗濯物をたたみ、洗濯物を干す等々の母親業をこなす日々が4年半程続く事となる。

 

私はその間、中学生になったが相変わらず手伝いは何一つしない親不孝者だった。
当時の母がどれほどキツかっただろうか想像すら出来ない・・・

 

 

不規則な生活リズムと、夕食の出前で母はどんどん太っていき高血圧になっていったのである。

 

今思い返してみれば、この頃の生活が引き金になっているのかもしれない。

発症前の母の生活リズム2(祖母編)

母の看護が2年程続いた頃、ツボマッサージが功を奏したのか祖母の反応に変化が現れてきた。

 

『ばあちゃん!ばあちゃん!』と私が呼ぶと目はつぶっているが、こっちを向くのだ。
しかし、意識は無いらしい…

 

喉に穴を開けられ、タンを吸引器で吸い取る時は本当に苦しそうな顔をする。
しかし、意識は無いのだ…

 

先生が回診に来たので『意識はあるんじゃないですか?』と問いかけてみた。
すると先生は、祖母の目を開きライトを照らし『いや、意識はないですねぇ…』と言う。

 

信じられなかった。

 

名前を呼んだら、こっちを向くのに。
手を握ったら、握り返してくるのに。
『見舞いに来たよ!』って言ったら、微笑むのに。
『また来るね!』って言ったら、泣きそうな顔になるのに…

 

ずっと目をつぶったままだから?
光を当てても瞳孔が開いたままだから?

 

医師の答えはいつも『意識はないですねぇ…』ばかり
だって喉に管差し込んだら、嫌な顔するんだぜ!
意識あるだろ!どう考えても?

 

喉を切開する時も意識がないから麻酔はしなかったそうだ。
痛かったろうに…それと同時に
私はゾっとした…

 

えっ?
最初の手術の時は麻酔したよね?
頭を切開したんだよ!ウソだろ?
学の無い私は、従姉妹の家で読んだ
『うばわれた心臓』という楳図かずおのマンガを思い出した。

 

 

問題は、瞳孔が反応するか否かで判断するところだ。
例えば、つねって痛い顔したら『意識が回復しました!』
でいいやん!
『夢じゃないの?つねってみて!』
『痛い!夢じゃない?』ってよくあるパターンやろ!

 

無論、その定義での『意識は回復しましたよ!』と言われたとしても
祖母の状態に変化がないのは理解している。

 

ただ私は、母の一生懸命な看護に『意識が回復した』という
母の目標をまずは達成させてあげたかった。

 

 

しかし、母の身を削る介護も虚しく、
祖母は倒れてから一度も意識を回復することは一度だってなかった

 

そして祖母が倒れてから4年半の月日がたった頃、祖母はとうとう帰らぬ人となった…

発症前の母の生活リズム3

必死の看護虚しく亡くなった祖母の葬儀が終わっても4年半染みついた母の生活リズムは変わらなかった。

 

午前中にパートへ行き、昼からは趣味の時間。
夕食を作って、それを食べると寝てしまう。

 

23時〜25時くらいに起き、風呂に入り
食器洗い・洗濯等の主婦仕事をこなして就寝していた。

 

その頃からパート先の健康診断では高血圧で
引っかかるようになっていた。

 

私も親父もその生活リズムは体に良くないと注意をし、本人も改善しようとしていたがなかなか改善はされず、とうとう血圧は180台に達した。

 

さすがにパート先の健康診断でも再検査となり、高血圧の薬を飲むようになった。

 

私達は祖母の脳卒中の一件があるので心配していたが、まさかアルツハイマーになろうとは思ってもみなかった。

親父の性格

昔の事は、あまり親父の方から話さないので
親戚が集まった時に叔父・叔母が話していた事や、私が過去に質問した事をまとまてみる。

 

戦時中に生まれ小学生の時に父を亡くす。
5人兄妹の次男で構成は、兄・弟・弟・妹。

 

いわゆる『本家』の次男として生まれた親父は、インテリア関係の営業をしながら
休日には母親(私にとって父型の祖母)と共に田畑を守ってきた。

 

また、動物(特に鳥類)が大好きで借家に住んでいる時にも小屋を作って様々な鳥や動物達を飼っていた。
実家(本家)時代から合わせると、セキセインコ・文鳥・九官鳥・孔雀・金鶏・ひばり・烏骨鶏・ニワトリ・シェルティー・モルモット・ウサギ・鯉・金魚・熱帯魚等だ。
本当に面倒見がよい。

 

家族・親族・友達を凄く大切にするのが基本概念にあるからだろう。
その為、それを傷つける者にはかなり攻撃的になる。

 

しかしその反面、身内から頼まれた事は絶対に断らない。
どんなに面倒くさい事でもだ。
なかなか出来る事ではない。私は100%無理だ。

 

また、私は1度仲良くなると腹が立ってもなかなかガツンと言えない性格だが
親父は少しでも仲間のNGワードに触れるとガンガン攻撃するタイプだ。

 

それ故に誤解される事も多々あるが、
私と違ってそれほど本気で相手の事を想い、そして接しているのだと感じる。

 

特に母に対しては『特別』で、『俺が死ぬまで母ちゃんの面倒は見る!』
と言った決意は、絶対に弱音を吐かず介護を続けている背中が物語っている。

 

 

私の自慢は夫婦喧嘩を1度たりとも見た記憶がない事だった。
しかし、母が要介護1〜2くらいの頃に事件は起こった。

 

その内容については、改めて話す事にする。

親父の気付き

母は基本、負けず嫌いだった。
多趣味な性格もそれが手伝っての事だろう。
また、慌てると冷静になれずテンパる事が極々稀に見受けられた。

 

負けず嫌いが故に、チョッとしたミスをすると自分が許せなかったのだろう。
たまにミスをすると、もの凄くイライラした顔で何かブツブツ言ってる様だった。

 

今思い返してみると、その時はかなり血圧も上昇していたのではないだろうか?

 

実際に高血圧の薬を飲んでいたし、その薬は平成29年の2月頃まで20年以上服用していたのだ。
母方の家系は高血圧持ちが多く、主だって脳に関係する病気で亡くなっている方が少なくない。

 

 

そんな中、母の行動に対し親父がチョッとおかしいなと思い始めた頃の話してくれた。

 

夜中のトイレが間に合わなくなったそうだ。
2階の部屋から階段を降りればすぐにトイレがあるのだが、階段を降りる途中で漏らす事が稀にあったそうだ。

 

50過ぎの年齢とはいえ、トイレが間に合わなくなる歳ではない…
その事を夫婦間で話し合ったかまでは、さすがにきけなかったが、 親父にとっても母にとっても不安の始まりだったに違いない。

 

 

母の病気の事は、あまり語らない親父からの貴重な証言だった